さてさて今回は、当サイト管理人のJP侍のクソド田舎の山奥から東京へ進出し(正確には神奈川)30歳過ぎまで野球を続けるに至った、それぞれのターニングポイントについて書き記していこうと思います。
僕のポロフィールはざっくりこんな感じになってますので興味のある方は見ていただければと思います。
リンク張っといてなんですが、うんちみたいなプロフィールですね。
リライトします。反省、、、
まぁここに書いてあることは本当で、
くそ田舎(狸やら猪やらクマが出る山奥)で育ったわけなんですが
あれよあれよと知らぬ間に特待(高校側から条件付き)で呼んでいただいたり
大学からお声がかかったり(こっちは待遇は特にナシだったんですが面白い経験もしたので後述します)
日本代表に選ばれたり、社会人野球で日本一を経験したり(ビールかけは神)
いろいろな経験をしてきました。
いつもならピンポイントな戦術や理論、練習方法や日々の心がけ、マインド的な部分にフォーカスした記事を書いていますが
自分の過去に経験してきたことが、今を野球人として生きている球児達に
- こんな経験もできるんだ。
- 田舎育ちでも十分にチャンスはあるんだ。
- こうやって次の道が開かれるんだ。
などといった自分の中の1つの指標や考え方として何かを感じ取って頂けたら幸せです。
あらかじめ言っておきますが、都会育ちがダメと言いたいわけでもなければ、自分は成功者だ。見習え。といった気持ちは1mmもありません。
では今日も元気に!
しまってばっちこいや!!!
【ドラフト候補になるまで】始まりは【かっこよ!!】から。
気が付いた時にはヤクルト古田選手の赤縁の紺色の防具と、青いキャッチャーミットが衝撃的にかっこよく見えて野球界に飛び込みました。
年末のTV番組 プロ野球 好珍プレーを見たのがキッカケだった気もしますが、、、
曖昧ですみません。
とにかく古田選手の青いキャッチャーミットが欲しかった記憶が鮮明にあります。
草野球をやっていた父の「BEN]の黒いキャッチャーミットを借りたときも、青くないとなーと謎の執着心を抱いていました。
「好き」とか「かっこいい」と思ったことに対して執着したり夢中になることが僕の野球人生の根源であったことに違いなかったことは、野球を離れて気付いたことともいえます。
1つ上に兄がいたので、兄と同じタイミングで小学校の野球部に入部。小学校1年生の冬から野球人生をスタートさせます。
初めての練習は、野球部の両親が経営する牛舎の庭でウォーミングアップから教えてもらった記憶があります。
肥料のにおいが強烈でした。
そんな感じで野球漬けの毎日が始まります。
【ドラフト候補になるまで】 意外と面白いじゃん キャッチャー以外
野球王に俺はなる!!!
そんな熱い思いとは裏腹に、最初についたポジションは「ライト」でした。
という感情を抑えて外野ノックを受けました。そこで野球の難しさに触れます。
まぁムズイ。フライなんかまったく捕れない。
俺がいる場所こそが落下地点だと思ってましたからね。
そんなこともあり、キャッチャーやりたい気持ちは一旦薄れ「こんにゃろ。次は捕ってやる!」とにかく今はいっぱいボールを捕って、いっぱい投げられればOKというスタイルになっていきます。
それからは、外野の先輩にコツを聞いたり教えてもらったりしながら練習に励みました。
初めて後方のフライを捕れて歓喜していた頃にはすでに、「キャッチャーがやりたい!」という気持ちはどこかへ飛んで行ってしまっていたと思います。
こどもの気が変わるのは本当に早いですよね。僕の場合は特にだと思いますが。笑
ちなみにこの時点で、
と思い始めています。
寒い土地での野球で、手が痛いしそもそも力がないから飛ばないし。
そう感じた思い出があります。
【ドラフト候補になるまで】内野手にかっこいい先輩がいた
ある日、
と言われて、初めて守った内野手のポジションはセカンドでした。
そのころには外野の守備練習も
と思っていたので好都合でした。笑
(この辺りでも自身の気が変わるスピードを発揮しています)
そこで当時、ショートを守っていたチームの中心選手だった先輩のプレーに釘付けになるわけです。
うわっ。かっけー。いいなぁー。
私のスタートは常にこの感情から始まります。
ショートを守る憧れの先輩の投げ方、打ち方、走り方、歩き方に留まらず、しゃべり方、笑い方まで真似しました。
出来るのであれば、グラブのメーカーや色まで真似したかった記憶があります。
もはや先輩みたいになりたいという感情ではなく。
俺こそが先輩という図々しさ極まりない考え方をしていました。
ショートというポジションにも憧れや執着したがあったからこそ、その後ショートとして生きる道を見つけることになります。
高学年になる頃にはショートをレギュラーとして守らせてもらえるようになりました。
ちなみにこの時もまだバッティングは超嫌いです。飛ばねーんだもん。
フライ打ち上げたらケツバットされるし。敷地の外を何周も走らされるし。
(今の時代からしたら考えられませんね笑 そんなんしたら一発OUTです。)
いや、昔はOKだったわけじゃないと思うけど、、、まぁいいや。次行こう。
【ドラフト候補になるまで】勝手に部門別ライバルを作り上げた
勝った負けたの世界に数年身を置き、だんだんと自分の中に眠る闘争本能が目を覚ましだします。
もともとガキ大将的な性分で負けず嫌いだったこともあり、人並み以上には勝負へのこだわりが強かったですが、小学校高学年になるころには、身近な人の優秀な部分を真似しつつ
- 投げる部門では田中に負けない。
- 走る部門では山田に負けない。
- 守備のうまさでは綾小路にまけない。
- バッティングは気にしない。
という感じで、部門別に勝手にライバルを作っていました。
個人的にこの考え方は、効果抜群でしたね。
ライバルと聞くと敵を作ると勘違いしてしまうかもしれないので確認の意味も込めていうと
自分より優れてる部分を持っている選手を目標に定めることです。
喧嘩して倒すことじゃないです。
自分の現在地を知れば、自分が〇〇君と比べて、どの部分が劣っているか分かります。
これが大事です。ライバルを作るためには自分が劣っているところを知ることがスタートだからです。
自分が勝っている選手をライバルにするのはただの弱いものイジメです。
ジャイアンです。
【ドラフト候補になるまで】「誰よりも」を意識した
先ほど述べたように
管理人は自分なりに、人と競争せずにマイペースにコツコツというのが性に合わなかったんでしょうね。
もちろんマイペースを貫いて力をつけいくタイプも沢山いましたから、この辺りは自分のことを良く知っておいた方がいいかもしれません。
技術的な部分だけでなく、日常生活や日々の練習の中でも「誰よりも」を意識して生活していました。
例えば
- 誰よりも声を出す
- 誰よりも早くグラウンドに立つ
- 誰よりも練習する
- 誰よりも一生懸命掃に除する
そんなことを自分ルールとして取り組んできました。
この辺りは、そんなことして何の意味があるのかという意見もあるでしょうし、
なんならやってる自分も何か意味を見出すためにやっていたワケじゃないというか
もはや理屈抜きに
やると決めたからやる。
それだけでした。それでいいとも思っていました。
結果、この姿勢がのちに心強い仲間を引き寄せる行動になったことは
紛れもない事実です。
【ドラフト候補になるまで】「俺を見ろ」を意識した
この辺りは管理人自身のただの目立ちたがりな性格が全面に押し出された心理ですね。
ただ、世の中の目立ちたがり屋でガンガン前に出たいのに、遠慮してしまう。
そんな選手に向けて伝えたい内容になっています。
球児達に伝えたいのは、目立ってなんぼです。悪目立ちではなく、自分の主張をしっかりと発信しましょう。発信するクセをつけましょう。
管理人は主張の度が過ぎて職員室に呼ばれたこともありますが、後悔はしていません。
学校のやり方に異を唱えて退学になりかけたこともあります。笑
この記事を読んでくださった読者やそのお子さん球児にそこまでやれとは言いません(むしろおススメしません)が、、、
自分を表現する方法はプレーだけでなく言葉や野球以外の時間で伸ばしていきましょう
そしてこの「俺を見ろ」スタンス。これがまた楽ではないんです。
むしろ注目される分、気が抜けないですし、ちょっとミスをすれば時には非難されたりすることもあります。
俺を見ろってことは失敗も全部見られますから。
ただその厳しい環境を自分から(主体的に)作り出す勇気はきっとあなたを野球人として1段階、2段階と成長させてくれるはずです
【ドラフト候補になるまで】日本代表選考合宿で愕然とした記憶
当時のメンバーの契約金をザっと計算すると10億くらいでした。
1億とはいわん。1000万ともいわん。鬼滅の刃最新刊を買ってくれ。それで十分だ。
後にそう思ったのは最近になってからです。
ちょっぴり残念というか驚いた経験を日本代表になったときにしたのでその時の話を少しだけ、、、。
あくまでその当時、自身が感じた主観なので当時のメンバーを非難したいわけではありません。
選出されれば日の丸を背負えるチャンスがある絶好のチャンスのはずが、死に物狂いじゃないにアピールする姿が見られなかったからです。
選考会自体はシーンとした雰囲気が充満し、
「俺を見ろ」どころか、俺は選ばれるに決まっている。そんな空気すら感じました。
当然、甲子園のスター選手ばかりでしたから技術やスピード、パワーは群を抜いた素晴らしい選手ばかりでした。
そんな中に、ド田舎の軟式野球出身のかつてないほど低身長の自分が放り込まれるわけですから。まぁ選出される確率は普通に考えて低いわけです。
そこで当時の管理人は考えました。
日本代表に入りたい。その気持ちに偽りはない。と
声を張り上げ、まったく知らない選手の集まりにもかかわらず声をかけまくり、時にはヤジって笑いを誘ったり、
ノッカーを煽って最後まで自分が残って泥まみれになるまでボールを追いかけたり。
とにかく世界と戦う超短期決戦こそ、一人一人の能力よりもチームとして心を繋げるための役割を俺が担う。その役割を泥まみれになっても俺がやるという姿勢を終始貫きました。
結局、この姿勢を認めてもらえて日の丸のユニフォームに袖を通すことになるのですが、
自チームでも、急造チームでも、熱い気持ちはチームに必要不可欠なことはこれからも変わらないと思います。
この代表入りをきっかけにドラフト候補と言われるようになり、ドラフト指名の権利があるい最終学年を迎えました。
【ドラフト候補になるまで】指名の可能性がありながらも社会人野球へ
正直、初めての代表入りも選考合宿こそ周りのスター選手の多さにビビりましたが、
世界大会に関しては、俺でも戦える!通用する!
そう感じたのも事実です。
それはごく最近も一緒に日本代表で戦ったメンバーとプレーしても同じ感情でした。
学生野球にはプロ志望届を提出する必要があり、提出期限が迫るなか
1つの決断をします。
「プロ志望届は提出しません」
周囲の方々には、挑戦すべきと言われたにもかかわらず僕は権利を自ら放棄しました。
あんなに目立ちたがりなのに、こと人生の大きな決断になると途端に選択が保守的になるんです。
管理人の性格です。
引退後も会社に残って野球人生後の職に困ることなく、目いっぱい野球ができる環境のほうがいいと思ったんですね。
2,3年でさらに実力がつけばそこからまたプロの道に繋がることも十分に考えられたわけですからね。
あの時プロに行きたいとはっきり言えなかったのは自分の弱さですね。
控えめに言ってクソ後悔しております。
だからこそ声を大にして言いたいでです。だいぶダラダラと書き綴ってきましたが、
ここまで読んでくださった皆様に対して今回の記事で最も伝えたい部分です。
球児達よ。
誰が何と言おうと、自分の本当の気持ちをさらけ出すのだ。
大人になると「プロ野球選手になる」という夢がちょっぴり恥ずかしくなった。
子供のころは大声で
「僕はプロ野球選手になるんだ!」といっていたのになぁ。
結局その気持ちが大人になってもブレがない迷わない(むしろ強固なものになる)人間が突き抜けるんだとも思わされたのです。
プロ野球選手っを目指す球児達の心に少しでも届けばうれしいです。
田舎者の私が日本代表選手 そしてプロ野球ドラフト候補になるまで 【まとめ】
今回は、いつもの記事とは趣向が違いましたがいかがでしたでしょうか。
最後に本記事の内容をまとめます。
- 【ドラフト候補になるまで】始まりは【かっこよ!!】から。
- 【ドラフト候補になるまで】 意外と面白いじゃん キャッチャー以外
- 【ドラフト候補になるまで】内野手にかっこいい先輩がいた
- 【ドラフト候補になるまで】勝手に部門別ライバルを作り上げた
- 【ドラフト候補になるまで】「誰よりも」を意識した
- 【ドラフト候補になるまで】「俺を見ろ」を意識した
- 【ドラフト候補になるまで】日本代表選考合宿で愕然とした記憶
- 【ドラフト候補になるまで】指名の可能性がありながらも社会人野球へ
プロの道を目指す人。
夢に向かう途中でその気持ちに迷いが出ている人。
決意を新たにしたい人。
一人でも多くの球児に届くことを願います。
今回は、この辺で^^
社会人野球で経験した日本一や、再び日の丸を背負い主将を務めて感じたこと、
社会人野球の凄さなどはまた別の機会に書き綴っていきたいと思います。
では!!